日本酒と蔵付き微生物

| 著 | 西田洋巳 |
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| 判型 | 四六判頁:136 |
| ISBN | 978-4-434-37113-4 |
| 発行 | 2026年1月 |
| 定価 | 1,870円(本体1,700円+税)
在庫:○
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2024年12月、日本の「伝統的酒造り」がユネスコの無形文化遺産へ登録されました。この「伝統的酒造り」とは日本酒、焼酎、泡盛の製造のことです。日本の伝統文化である日本酒や日本酒造りに対して世界の関心が高まることはとても喜ばしいことです。しかし、日本国内においては、日本酒の消費は年々減少し、酒造会社の数も減少しています。国民の日本酒への関心が薄れつつあると感じます。このような国外と国内のアンバランスの中、日本酒造りの継承者・後継者がどのような日本酒の未来を構築していくのか注目されます。本書では、日本酒および日本酒造りの魅力を伝えることに心掛けました。著者は微生物にかかわる研究を行ってきましたので、日本酒造りにかかわる微生物に焦点をあててサイエンスの視点から書きました。
日本酒の起源は稲作が日本に伝わった紀元前の時代までさかのぼると考えられます。日本酒および日本酒造りは伝統文化の一つであるとともに、古代から受け継がれてきた様々な伝統文化とかかわりながら継承されてきました。日本各地で多くの神々が祀られていますが、神前に供えるものの中に日本酒(神酒、御酒)は含まれます。正月には、多くの人が初詣に行き、そこで日本酒を飲んだり、家で屠蘇を飲んだりするかと思います。本書では日本の文化と日本酒とのかかわりについては言及しませんが、日本酒は日本の伝統文化において重要な役割を果たし、なくてはならないものであることは明らかです。
日本酒にかかわる文字についても一つ述べておきます。詳細は第4章「糀造り」で述べますが、日本酒造りには、麹菌を蒸米に生やしてつくる「こうじ」が必要です。「麹」という文字は中国から入ってきた漢字です。米に麹菌を生やした米麹、麦に麹菌を生やした麦麹、大豆に麹菌を生やした豆麹などが「麹」には含まれています。それに対して、「糀」という文字は明治時代にできた日本独自の文字(国字)です。米の花と書いて、米麹しか意味しません。確かに、麹菌が生えた米を見ると、米の花が咲いたように見えます。麦麹だけや豆麹だけを意味する文字がないことから、日本酒造りで使用する米麹だけを別格としたように思います。本書では米麹に対して「糀」を使用しています。
通常、酒造会社では日本酒造りを統括する杜氏の指導によって毎年、冬の時期に日本酒が仕込まれます。日本の冬期の気候が麹菌や酵母を制御するために都合がよいためです。実際に日本酒を造っているのは微生物であり、人はそれら微生物の働きをうまく調整して、望んでいる味や香りの日本酒に近づけています。本書では日本酒造りにかかわる微生物の働きに焦点をあて、大学の研究室で最近明らかにした研究成果にも言及しました。著者の研究室では酒蔵に棲みついているバクテリア(蔵付きバクテリア)の働きに注目しており、蔵付きバクテリアがその酒蔵で仕込む日本酒の味や香りにどのような影響を与えるかを明らかにすることを研究の目的としています。著者たちが日本酒造りの過程から分離した蔵付きバクテリアはこれまでに日本酒造りとの関連が知られていなかったバクテリアでした(第8章「蔵付きバクテリアの分離・同定」)。日本酒造りでは全くスポットライトが当てられることがなかった微生物です。これらの知見を盛り込みましたので、その部分はオリジナル、ユニークですので、やや難解に感じられるかもしれません。
まずは一般的に知られている日本酒造りにかかわることについて述べます。日本酒造りの過程で醸造用アルコールが添加される場合とされない場合があります。醸造用アルコールを添加しない日本酒の原材料は米、糀、水であり、純米酒といい、醸造用アルコールを添加した本醸造酒などと区別されます。ただ、通常、醸造用アルコールの添加は仕込みの後期、原酒と酒粕を搾り分ける前に日本酒の味や香りを整えるために行いますので、醸造用アルコールを添加した日本酒においてもアルコールの大半は日本酒の仕込みの過程で酵母が生産したものです。米を水に浸けるだけではアルコール発酵は生じることはなく日本酒にはなりません。さらに、米を水に浸けて、そこに酵母を加えても日本酒はできません。酵母が米を食べる(分解する)ことができないからです。古代、人が米を噛んで、それを発酵させて造る口噛み酒がありました。人の唾液に含まれるデンプン分解酵素が米のデンプンをブドウ糖に変換し、そのブドウ糖を酵母がエタノールに変換したために酒となったわけです。すなわち、酵母はデンプンを食べず、ブドウ糖を食べます。日本酒造りでは麹菌のデンプン分解酵素が米のデンプンをブドウ糖に変換します。そのため、原材料の蒸米に麹菌を生やした糀が必要となるわけです。最終的には糀の量の三倍以上の蒸米を日本酒造りでは使用しますので、これら蒸米のデンプンも糀由来のデンプン分解酵素が分解することになります。さらに、麹菌にはデンプン分解酵素だけではなく、タンパク質分解酵素、脂質分解酵素など様々な分解酵素が存在し、米の様々な成分を分解します。「近代バイオテクノロジーの父」とよばれる高峰譲吉は麹菌の分解酵素に注目し、胃腸薬タカジアスターゼを開発しました。タカジアスターゼは、1894年にアメリカにおいて特許を取得し、パーク・デイヴィス社(現、ファイザー社)から販売され、世界的なヒット商品となりました。これが微生物酵素への初めての特許であり、商業生産であるといわれています。現在、世界で展開しているバイオテクノロジーは麹菌から始まったといっても過言ではありません。
麹菌も酵母も菌類に属する真核細胞の微生物です。ただ、生活様式は少し違っています。麹菌は菌糸を伸ばして生活し、菌糸には隔壁があり、多細胞化します。生活の場を変える際には無性胞子(分生子)をつくって、それらを飛ばします。酵母は単細胞で生活の大半を過ごし、出芽によって無性的に増殖します。第1章「菌類とバクテリアの系統分類」で述べますが、麹菌も酵母も日本酒造りでは無性増殖しますが、生活環境の変化によって性的接合を経て有性時代に入ると減数分裂後に有性胞子として子嚢胞子を形成します。よって、麹菌も清酒酵母も子嚢菌類に系統分類されます。異なる性状の酵母株を接合させて新たな性状の酵母株を取得することも清酒酵母において行われますが、通常、日本酒造りにおいては無性的に出芽増殖します。これらの微生物を人はいつどのように認識したのかはっきりしないこともありますが、麹を造るために麹菌の分生子・無性胞子(種麹)を販売する麹屋はすでに室町時代にはいましたので、少なくともその時代には麹菌は認識されていたと考えられます。他方、日本酒造りでは胞子形成をしない酵母については、麹菌と同様な認識にはなかったかもしれません。ワインがブドウ栽培、ビールが麦作と関連し、それらの起源も同じ時期であったと考えられています。最初に述べましたが、日本酒も稲作が日本に伝わった紀元前の時期にその起源があると考えられます。日本全土で日本酒は同じような製造方法で造られてきたことから、日本酒造りに使用されてきた麹菌や酵母は日本の風土に定着した菌類であり、先人たちは蒸米の状態変化を観察し、これらの菌類を上手く利活用して日本酒を造っていたと考えられます。微生物として認識していたかどうかは不明としても、菌類の存在およびその働きを正確にとらえ、それらを調整、制御しながら日本酒は造られてきたのではないでしょうか。
糀造りでは麹菌、アルコール発酵のスターターである酛もと (酒母) 造りでは酵母が混入しなければ日本酒を造ることはできません。よって、日本酒造りは完全無菌状態で行われておらず、麹菌や酵母のほかにも多くの微生物がその過程で混入しているはずです。しかし、いつ、どのような微生物がどれほど混入しているかについて調べられることはほとんどありません。その理由は酵母の生産するエタノールにあります。市販されている日本酒の多くはエタノール濃度が15%程度ですが、造りたての日本酒のアルコール濃度は20%近くに達しています。多くの酒蔵ではそこに加水してアルコール濃度を15%程度まで落としています。なお、加水していない日本酒は原酒として販売されています。酵母の生産するエタノールによって大半の混入微生物は増殖を停止して死滅すると考えられます。これらの混入微生物の日本酒造りにおける役割はない、あるいは極めて低いと考えられてきました。しかし、著者は、麹菌と酵母は日本酒造りにおいて必須の微生物ですが、それら以外の微生物が日本酒造りの過程で混入することによって、日本酒の多様性が生じていると考えています。
一般的に、同じ原材料を使用して同じ過程で日本酒を造っても、異なる製造地では同一の味や香りにはなりません。さらに同じ酒蔵の同じ銘柄の日本酒でも毎年同一の味や香りになっているとは限りません。これらの違いが生じている要因の一つが、日本酒造りの過程で混入し清酒酵母と相互作用する微生物の違いにあるのではないかと考えられます。日本酒造りの過程で微生物が混入してから死滅するまでの間、何かしらの働きを持っていると考えられます。すなわち、著者は、混入した微生物が日本酒の味や香りといった品質にかかわる化合物を生産していなくても清酒酵母との相互作用を通して、酵母の性状を変えて日本酒の味や香りに影響するのではないかと考えています。そこで日本酒造りの過程で混入するバクテリアに注目して研究してきました。現在も、大学の研究室において酒造会社との共同研究を行い、その酒蔵における日本酒造りにおいて必然的に混入するバクテリアの有無を調べています。そして、そのようなバクテリアがいる場合には、そのバクテリアの日本酒の味や香りへの影響についてさらに調べています。
前述しましたように日本酒を造るためには、麹菌と酵母という菌類が必要です。菌類の細胞は核を持ちます。それに対して、バクテリアは細胞に核を持たない生物ですので、麹菌や酵母とは系統進化上大きく違った生物群です。第1章「菌類とバクテリアの系統分類」で述べますが、核を細胞に持たない生物にはアーキアという生物群も存在しています。アーキアは系統進化的にはバクテリアよりも真核細胞生物に近縁です。アーキアが酒蔵に棲みついているかどうかを調べたことはなく、本書ではアーキアは取り上げません。「蔵付きアーキア」については今後の課題の一つです。一般的にバクテリアは分裂によって増殖します。その際、親と子の区別はなく、母細胞から娘細胞ができる酵母の出芽とは大きく異なります。
バクテリアの中には食品・飲料の腐敗や発酵にかかわるものが存在します。腐敗や病気にかかわるバクテリアは人に嫌われていますが、特定のバクテリアは発酵食品・飲料や有用物質生産などに利活用され、人の役に立っています。例えば、ヨーグルトやチーズ造りに必要な乳酸菌、穀物酢や果実酢造りに必要な酢酸菌などはバクテリアです。また、グルタミン酸などのアミノ酸を細胞外に排出するバクテリアも工業的に利用され、アミノ酸発酵とよばれています。
肉眼で確認できる生物に比べ、顕微鏡観察で確認する微生物についてはこれまでに把握している生物種の数は実際に存在している数の数パーセント程度であると考えられています。菌類にしてもバクテリアにしても、地球上には一千万種を超える生物種が生きていると見積もられています。よって、人が利活用している微生物は極めて限られています。また、人はごく一部の微生物を育種して、より効果的かつ安全に利活用できるように継承してきました。本書では、最初に日本酒および日本酒造りの歴史的な背景を述べて、その後、日本酒造りで必然的に混入するバクテリアの働きについての研究を紹介し、その働きを利活用した日本酒造りの可能性について言及します。
- はじめに
- おわりに
- 参考文献
- 索引






